デビューが後々まで語られることは、特に野手においては、少ない。例えば、川上や王のデビューを、記念としてではなく、後の活躍と照らし合わせながら、熱く語るものはいない。長嶋はデビューが熱く語られる数少ないプレーヤー、いや最も熱く語られるプレーヤーであるのは、デビューにおいて、すでに後の活躍につながる何かを予感させるものを示していたからである。
 長嶋以外に、デビューが熱く語られるプレーヤーとして、われわれは故大下弘の名をあげられる。と言うよりも、むしろ、野手としてデビューが熱く語られるプレーヤーは長嶋と大下の二人だけである。
 大下は一九四六年から五九年までの実働十四年の間に、MVP一回、本塁打王三回、首位打者三回に輝き、通算二〇一本塁打、終身打率三割三厘の実績を残している。さらに、大下は一九五六年から五八年までの三年連続日本一になった西鉄ライオンズ黄金時代の主軸打者だった。そして、大下も、長嶋と同様、生涯記録だけによって規定されるプレーヤーではなかった。
 しかし、大下弘と長嶋のデビューには二つの相違点がある。第一には、大下はデビューするまで無名だったのに対して、他方、長嶋はすでに「ゴールデンボーイ」の評判が高かった。第二には、大下がデビュー戦の東西対抗でホームラン、スリー・ベースと長打を打ちまくったのに対して、他方、長嶋は四打席四三振であった。
 にもかかわらず、二人の登場には共通してそのデビューにおいてすらプロ野球を変えた意義があるのである。二人のデビューの違いはその意味合いの違いから派生している。
 大下は六大学時代(明治大学)には無名のプレーヤーにすぎなかった。当時の六大学の野球は、早稲田大学野球部監督の飛田穂州の野球観が支配的だった。飛田は「一球入魂」や「修養の野球」を標榜し、フライを「テンプラ」打法として邪道と否定し、内野手の頭をこすような極端な短打主義を打ち出したのである。こうしたコツコツ銀行預金をするような高出塁率を重視する短打主義は、アメリカにおいても確かにあったが、それはベーブ・ルースの登場前のタイ・カッブらの時代の野球であった。その当時の野球は作戦を楽しむというもので、飛ばないボールでしかもボールの質にムラが多く、スピット・ボールが合法化されていた時代背景のもと生まれたのである。タイ・カッブらは、物凄い変化球に対応するために、バントのように左右のグリップの間を開け、チョコンとあてて内野手の頭を越す打球を放っていた。それは、現在で言えば、ちょうどマリーンズの西村徳文のバッティング・スタイルを思い起こせばよい。そうした野球の中、大下は打球をポンポン打ち上げるので、大学時代は重要視されなかった。大下は、大学時代について、「あの頃は、どこもかしこも早稲田式野球で、絶対にフライを打ち上げちゃいけなかったんです。ライナーしか打てない。だから、僕は大学では、あまり野球を学ばなかったですね」、と告げている。戦後、大学のグラウンドでポンポンとフライをあげている姿が明大OBでセネタースのオーナーだった横沢三郎の目にとまり、大下はプロ野球に入ることになる。
 大下は、ベーブ・ルースがアメリカ野球でそうしたように、ホームランバッターとして日本プロ野球の新しい地平線を切り開いたのである。一九四六年に大下の放ったホームラン二〇本という数は、プロ野球(一リーグ時代)の総本塁打数の九・五%を占めている。この比率は日本プロ野球の歴史上一番高い。大下の比率を九〇年に当てはめると、セ・リーグは七四本、パ・リーグは八六本となる。全体でのホームランの総数が大下一人の打った数に及ばないチームもざらだった。岡崎満義は、『川上哲治と大下弘』において、大下の二〇ホーマーの驚きは王の五五ホーマー以上だったと回想している。大下が登場するまで日本プロ野球の本塁打数は最高が日本初の三冠王になった東京ジャイアンツの中島治康の十一本だったのである。十本以上の本塁打を打ったのは、中島以外には、南海ホークスの「親分」鶴岡一人だけである。二〇ホーマーは当時としては驚異的な記録であり、大下の登場によって、プロ野球はホームランの時代へと変わったのもうなずける。大下弘は一つの時代において抜きんでた存在だったのである。大下は、そうした意味においてならば、日本プロ野球史上最高のホームラン・バッターと言ってよい。無限の彼方へと放つ虹のような放物線のホームランの美しさは、大下の甘いマスクとあい重なって、日本プロ野球の新たなシーンであった。
 時代が要求しなければ大下のホームランもそれほど脚光を浴びなかったであろう。戦前にはすでに中島治康というホームラン・バッターがいた。彼も六大学時代(早稲田大学)の評価は二流にすぎなかった。彼の打法は、玉木正之の『4番打者論』によると、「ステップした左足をバケツに突っ込むようにはねあげ、さらに外側へアウトステップする、田淵幸一と山本浩二を合わせたダイナミックなもの」だった。彼は上から落としても膝くらいまでしか跳ね返ってこない粗悪なボールの時代にワンバウンドのボールをライトスタンドに叩き込んだり、五試合連続で本塁打を打つなどパワフルなバッターであり、一九三八年の秋シーズン(当時職業野球は春と秋の二シーズン制)に日本で最初の三冠王に輝いている。しかし、彼は「邪道」の打法として、一部の職業野球のファンを除けば、注目されなかった。寺山修司は『誰か故郷を想はざる』において大下の登場を次のように述懐している。「一九四六年、わが国のホームラン王は東急セネタースの大下弘であった。セネタース自体が、この年発足したばかりの新球団だったので、新しいものに『期待』していたファンの喜びは大きかった。大下は打率は〇・二八二で二十位にも入らなかった。しかし、敗戦で何もかも灰燼に帰してしまったファンは、人生だけでなく野球に於いても『一挙挽回』を望んでおり、打撃王のタイガースの金田正泰などの数十倍の拍手を新人のホームラン王の大下に送ったのである」。大下が野球の歴史の転機となる存在だったのは、類いまれな打球の飛距離を出す力だけにあるのではなく、新しさを待ち焦がれているファンから歓迎されたからである。さらに、野球におけるその新しさは戦前の色を払拭していなければならなかった。ファンは、戦前野球において主流だった学生野球ではなく、虐げられてきた職業野球に新しさを期待していたのである(4)。しかも、大下のバッティング・フォームがグリップを腰より低く手前におき、右足を軽く浮かし前傾の構えでボールを待ち、アッパー・スイングでボールをバットにのせてスタンドまで運ぶとという変則的なものだということも新しさをファンになおさら印象づけた。どんなに素晴らしい力を持ったものでも、受け入れるものがなければ、歴史を変えることはできない。吉目木は、『記録の見方』において、「過去の記録を評価する際にポイントとなるのは、それがその時代においてどのような意味を持ったか、つまり、時代の中で傑出していることはもちろん、歴史の中で分岐点となるものであったか、後継者を生みだし得たか、という点である」と述べている。本塁打王は戦前には連盟表彰のタイトルとして認められてはおらず(5)、バッターの勲章はあくまでもアベレージだった。それが、大下の登場によって、藤村や小鶴、青田、別当といったロング・ヒッターが次々に現れた。さらには、すでに確立した名声を持った「神様」川上までもが、バッティングを変え、ホームランを打ちにいったのだ。 ところで、その時代において、川上と大下を支えたものは何だったろうか? 少なくとも、それはハングリー精神なるものではない。ハングリー精神は結果と原因を置き換えることによって生じただけなのであって、それは幻想にすぎない。
 スポーツの分野に関する最も優れた批評家である岡崎満義は、『川上哲治と大下弘』において、ハングリー精神を「基本的には生活の貧しさからくる飢えの恐怖というものだろう」として、それが、川上哲治や大下弘だけでなく、偉大な選手を生むことはありえないと次のように指摘している。
全き貧困の中から野球選手は生まれるわけがない。少なくとも、戦前なら中学、戦後なら高校に進学して、硬球を手にするだけの社会的・生活的基礎がないかぎり、野球選手にはなれない。進学できる程度の貧困以上の生活水準がなければ、「ハングリー精神」の発揮のしようもない。(略)
 物のない、いつも腹減らしていた終戦直後から、「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれた昭和31年ごろまで活躍した二人は、もちろん「ハングリー精神」の持ち主であったにちがいないが、腹が減っていたから首位打者やホームラン王になるほど努力したのだ、とはどうしても思えない。腹が減っていたのはその他の野球選手も、また試合を見に来たファンも同様、いや、早い話が日本人の99%は飢えの恐怖にさらされていたはずだ。いわば「ハングリー精神」は社会全体に蔓延していた。そんな中で素晴らしい記録を残した川上や大下を、とくに「ハングリー精神」の発現者として特筆大書するのはあまり意味があることとは思えない。
 また、物のあふれた現在と昭和20年代とをくらべて「ハングリー精神」を語るのは、方向違いだろう。
 川上の著した『ジャイアンツと共に』『悪の管理学』から最近の『常勝の発想−−宮本武蔵「五輪書」を読む』にいたるまでの著書、大下については『大下弘日記−−球道徒然草』を読んでみると、この二人をつき動かしたのは「ハングリー精神」というよりも人一倍強い「親孝行」の心、とでもいうべきものではないか、と思った。野球をするのは自分であるが、その自分の後ろには親があり家がある、そのことに自分は責任を負っている、ということを信じて疑わなかった。多分、その単純明快な強さを「ハングリー精神」といったのだ。
 人はそれぞれある時代の中で生きていく以上、誰の出発点となるのも時代の中でありふれたものであろう。時代に蔓延していた雰囲気を後から特権的にとりだすことは、その時代にあってなぜ他ならぬその人となった理由を明らかにしないどころか、それを隠蔽するだけにすぎない。見るべきなのは、時代の気分から自分をどうおいつめていったかということである。川上と大下を支えたのは「親孝行の心」だった。それは、確かに、現実的な感触を持ったものだったが、それを信ずる「単純明快な強さ」を持ったのは彼らだけだった。大下は無批判的な美談に転換されやすい危険性を知り、それを広言しなかったが、川上は「親孝行の心」を語り、「単純明快な強さ」もなく、支える現実がなくなってからは、イデオロギーへと転換させてしまった。川上と大下の差異はそこにある。
 よくアメリカの選手は日本に比べてハングリーだとプロ野球の評論家が言うようだが、ハングリー精神の伝説に対する批判はアメリカのプレーヤーからもあがっている。
 七〇年代ニューヨーク・ヤンキースのエースだったスパーキー・ライルは、『ロッカー・ルーム』において、ハングリー精神の伝説を次のように非難している。
貧困の中から脱出するために野球をやるとか、ハングリーだから強くなったとかいう“伝説”はみんな嘘だ。金のためにプレーすると言うのは、後からとってつけたお話であって、プレーしている時の人間は(あるいは“猛獣”は)そんなことなど全く考えていない。「チームのために」とも思っていない。ただひたすらその一瞬に集中し、己れの本能をさらけ出し、全能力を発揮しようとしているだけだ。客観的に見れば、それがより充実した「生」の瞬間を過ごそうとする人間の、男の姿でもあるかもしれない。 
その上で、ライルは、「『チャーリーズ・エンジェル』を見るため、試合中にベンチを離れる選手がいた」とも付け加えている。試合中にテレビを見ることと「その一瞬に集中」することはまったく矛盾せず、「より充実した『生』の瞬間を過ごそうとする」ことの表出なのだ。マーシャル・マクルーハンは、『メディアはマッサージである』において、テレビを「クール・メディア」と定義し、「画面を見ているものを、次の行動に導かないメディア」と言っている。かつてわれわれも『チャーリーズ・エンジェル』をかかさず見ていたので、そういう立場に置かれても、きっと同じことをしていたに違いない。
 大下はそれまでの四番打者像を転倒した。玉木の『4番打者論』によると、大下以前の理想の四番打者像とは、「チームを代表する選手として、“心・技・体”ともに優秀であるという、相撲の横綱審議委員会が、力士を横綱に推挙するときのような条件が、イメージとして付加」されていた。川上哲治はそうした戦前からの四番打者像を代表していた。川上は当時の「誰もが“正統派”と認める素晴らしい“弾丸ライナー”をかっ飛ばした。また、『ボールが止まって見える』といった発言に示される“精神”も“正統派”そのものだった」。川上に対して、プロ野球一の高給取りの大下は宿酔いで一試合七打席七安打を記録したり、豪放磊落な性格と柔らかな笑顔で、さまざまな女性スキャンダルとエピソードを欲しいままにしたのである。つまり、大下は、無名性の持ついかがわしさを十二分に発揮することによって、既存の階序を転倒した。大下は生きられた階級闘争だったのである。要するに、大下は、無名性とホームランによって、四番打者像や日本プロ野球を変える意義があったのであり、デビューはその象徴として語られているのである。
 さらに、大下の影響はプロ野球界だけにはとどまらなかった。大下はファン・サーヴィスをこころがけたプレーヤーでもあり、当時流行した並木路子の『リンゴの唄』の「赤いリンゴに唇寄せて、黙って見ている青い空」という歌詞から自分のバットを青に塗り(実際の色は青よりもむしろ緑に近い)、「青バットの大下」と呼ばれ、その「青バット」に憧れて少年たちは野球を始めたのである。つまり、戦後から始めたプロ野球選手大下は、プロ野球選手になることを少年の夢とした初めての教育者的なプレーヤーだった。大下の登場によって、プロ野球選手になることが少年の夢として世の中で認定されたのである。 長嶋の登場は大下の試みをさらに一歩進めたものであった。大下はあくまでも川上との対立によって語られていた以上、日本の野球を変えたが、六大学の野球を完全に破壊することはできなかった。玉木は『4番打者論』において「長嶋は、六大学の“正統派”であるライン・ドライブの打球を飛ばしながら、なおかつその距離を伸ばし、立教大学時代に通算8ホーマーの六大学リーグ新記録を樹立した。つまり、彼は六大学の権威者たちに、一切の批判を許さない打法で、ホームランを量産したのだ」と述べている。つまり、長嶋は大下によって変えられた「一球入魂」野球を完全に破壊したのである(6)。V9時代のジャイアンツから日本シリーズでブレーブス全八勝中五勝をあげた足立光宏は、岡崎満義の『足立光宏』によると、長嶋を次のように分析している。「長嶋は動物的なカンとかヒラメキとかよく言われたが、そのヒラメキの下に、豊富なデータ、キチンと身についたセオリーがあった。実にオーソドックスな野球をキチッとしている、という感じでした。そういう野球の常道を行きながら、相手のある勝負事だから突発的な状況が出てくる。するとまさに天才的なヒラメキが彼の頭の中のコンピューターをたちまち修正してしまう。あらゆる戦況に一瞬にして正しく反応、適応してしまう大きな力を感じました。これはかなわない」。長嶋は他人のバットを借りて、よくヒットやホームランを放った。例えば、大学時代の八本の本塁打はすべて借りたバットで打っている。だが、長嶋は気紛れにそうしたわけではない。長嶋は、ゲームの状況や自分の調子と相手の調子、気温や湿度といった天候を十分に分析した上で、自分のバットがその状態に適していないという結論に達し、意識的にこの条件に合う他人のバットを選んだのである。
 長嶋はこのように伝統的な背景を持ったプレーヤーだったと同時に、その背番号もオーソドックスだった。長嶋の背番号3は、森昌彦から始まった背番号27によるキャッチヤーの系譜とは違って、長嶋から始まった名プレーヤーの番号ではない。長嶋以前にも、ベーブ・ルースや「班長」中島治康、「猛牛」千葉茂、「安打製造機」榎本喜八、大下弘らがつけていたものであり、長嶋以後も、明らかに背番号3はスラッガーやスターの背番号となっている。あの江川もジャイアンツにトレードされる前のタイガース時代背番号3だったのである。また、長嶋以前の名プレーヤー、中西の6、藤村の10、稲尾の24、金田の34らのように、系譜を持たない彼ら独自の番号でもない(豊田の7はミッキー・マントルにあやかった背番号である)。3は、田淵やスワローズの「ペンギン」安田猛の背番号22のように、同時代的にコミカルなプレーヤーを表象していたわけでもない。しかし、背番号3は長嶋以前はスターやスラッガーという類的なものを指していたが、長嶋以後では長嶋の面影を抱くものに与えられるものとなったのである。類的なものから個人へと長嶋は背番号3の意味合いを変換させた。つまり、長嶋は伝統を踏襲しつつも、それを転倒してみせることを示したのである。
 長嶋の公式戦デビューは一九五八年四月五日の読売ジャイアンツ=国鉄スワローズ戦(於後楽園球場)である。この試合はそのシーズンの開幕戦で、長嶋は三番サードでスタメン出場し、ゲームの結果は延長十一回、四対一でスワローズが勝っている。スタンドは「ゴールデンボーイ」長嶋と「天皇」金田正一との対決を見に集まったファンでいっぱいだったと言う。長嶋はこのとき金田に四打席四三振を喫している。金田の長嶋への投球数は全部で十九球であり、ストライクは十二球である。十二ストライクの内訳は、空振り九、ファウル・チップ一、見逃しは僅か二である。
 長嶋を四打席四三振に切ってとった金田は野球界の「天皇」と呼ばれていた。岡崎満義は、『金田正一』において、「金田天皇」について次のように述べている。
“天皇”は監督より上の存在である。本来なら監督は最高の司令官であるはずで、またそうでなければチームの統制もとれないのだが、“金田天皇”はほとんど“超法規的存在”であった。(略)
 日本の社会と“天皇”の関係は複雑微妙、いわく言いがたいところがある。かつてアラヒトガミであり、戦争に負けてニンゲンになり、やがて“象徴”になり……、つまりカメレオンのようにさまざまに色が変わってきた。それでも“天皇”は日本の社会を貫き、一木一草にまでしみこんでいるのである。戦後“天皇”と呼ばれた人では、映画監督の黒沢明、日本医師会会長の武見太郎(故人)が有名だが、そこに“金田天皇”も一枚加わっている。この三人に共通する“天皇”性とは、合理、不合理のレベルを超え、しかも具体的な実績を積み上げ、その強烈な個性もあいまって斯界に君臨する、という形の存在である。
 “天皇”を必要とするジャンル、野球社会の古さをあげつらうのはやさしいが、彼らが“天皇”の実力でそのジャンルを革新し、レベルを押し上げていったのもまた事実である。
 金田の投手としての力は同時代的に一頭地をぬいていたことは確かだし、彼が日本の投手の意識を変えるきっかけを担っていたことも否定できない。だが、たんに野球の力や実績、迫力があるだけでなく、そこに日本的なシステムの何ものかを内包していなければ“天皇”とは呼ばれない。かつて監督に逆らった藤村富美男や金田正泰といったプレーヤーもいたが、彼らは一人として“天皇”とは命名されなかった。金田の存在は日本の縮図であった。金田の在籍していた国鉄スワローズは、万年最下位の広島カープほど徹底的に弱いチームではなく、日本浪漫派の言う日本のように、はかなく哀れっぽい弱小球団だった。そこで金田はジャイアンツや名選手を憎み続けて、自分をなだめてきた。金田は他人に負けたくないという情念にとらえられ、人より上に立ちたいという欲望においてのみ生きているプレーヤーだったのである。金田はつねに自分より上位の誰かに対する「反感」に囚われ、その反感を増幅する中で生きていた。金田にはルサンチマンを晴らすことに生の理由があったのである。圧倒的な野球の力を持つ金田によって、弱く下手なスワローズのメンバーは負い目を負い、精神的に支配されてしまった。そして、金田が監督の上にいられたのは、ファンがそれを支えたからであり、弱者としてのファンが金田に自分の反感を晴らすことを同一視したのである。金田は野球において怨恨によって成り立っている無としての天皇制に類似したことを体現してみせた。つまり、金田が“天皇”たり得ていたのは、野球の実力が優れていただけでなく、反感をうまく組織化できたからである。
 従って、まわりの凡庸なプレーヤーを見て自分の優越感を味わっていたため、金田には、「オール・スター九連続奪三振」や「江夏の二一球」によって語られる江夏豊のような、見せ場というものがなかった。金田の見せ場は長嶋のデビュー戦だけなのである。
 また、金田の記録の中で、現在大リーグを上回るものはほとんどない。勝ち星では、サイ・ヤングが五一一勝を、国鉄スワローズ以上に弱いワシントン・セネタースでウォルター・ジョンソンが四一六勝をあげているし(完封試合一一三の大リーグ記録を持っている)、奪三振においては、ノーラン・ライアンが五千奪三振を達成してしまっている。黒人リーグを除く投手部門の主な世界記録としては、スタルヒンや稲尾のシーズン四二勝や江夏のシーズン奪三振四〇一だけであり、金田の記録は日本国内でしか通じない“天皇”の記録なのである。
 長嶋が金田から一打席でもヒットを打ったならば、長嶋は金田のルサンチマンの回路を増幅することになり、長嶋自身もこの回路に組み込まれてしまう。長嶋は抑えることや勝つことだけに躍起になっている“天皇”金田から豪快に且つ美しくそのすべてを三振することによって、野球の既存の価値を転倒し、金田のその回路を破壊したのである。金田はジャイアンツに挑むことによって反感を晴らし、自分の生き方やその満足や不満足をいつも他人の評価だけから見ていた。それは、金田がジャイアンツに入ってからは成績が伸び悩んだことからも、明らかであろう。長嶋はその金田の前で三振して見せることによって、ルサンチマンが実は生の否定にしかすぎないとファンに示してくれたのである。
 長嶋は三振の美しさを初めてファンの目に触れさせた。大下はアベレージ=ホームランという機軸にいたのであり、ホームランは日本プロ野球の転倒を表していた。一方、長嶋は三振という野球において最も貶められていたものの一つを美として表したのであり、それは野球そのものの転倒であった。
 長嶋は構えの段階でそれまでの名のあるバッターとは違っていた。「神様、仏様、稲尾様」と称された稲尾和久は、岡崎満義の『稲尾和久』によると、長嶋と初めて対戦したとき、評判ほどにない、「何とスキだらけの打者や」と思ったらしい。しかし、木鶏だった長嶋にその直後自信を持って投げた外角のボールを見事にライト線にスリー・ベースを打ち返されている。さらに、金田は、岡崎満義の『金田正一』によると、「長嶋のよさってのはフリースタイルであること。獲物を狙う鷹の目で、思いきったら、空振りしようが、納得ずくで振ってくる。いまの原辰徳なんかが、詰まったとか、体が開いたとか、そんなことは関係ないんやね。開くなら最初から開いとけ、というのがシゲのバッティングやった。手の出がわからんのが優秀なピッチャーなように、バッターもバットの出所がわからないのが、投手にとって一番嫌な打者。バットのヘッドがいつもあとに残っているものだから、最後の最後までヒヤッとさせられる。ものすごい迫力だった」と回想している。
 この稲尾や金田の長嶋に対する分析は、長嶋がどういう打者であったのかをわれわれによく伝えてくれる。長嶋は、プロ入りしてから、努力や苦労といったことを一切口にせず、表情にしても、プレーにしても、そんな気配すら微塵も感じさせなかった。長嶋はつねにファンにアピールするプレーをこころがけ、走者になると小指の先までもピンと伸ばして全力疾走を試み、空振りするときもヘルメットの美しい飛ばし方を考慮し、どんな平凡なゴロを処理するときもファイン・プレーに見せるようにした。長嶋はすべてにおいて自由にプレーしたのである。玉木は、『4番打者論』において、「ファンにアピールするプレーを見せ、チャンスに強く、自らの打棒でチームを勝利へと導く牽引車−−それが、長嶋のつくりあげた『4番打者』像である。これはまさしくファンにとっての理想というべきもので、その特徴をひと口でいうなら、『ファンを喜ばせた』ということになるだろう」、と述べている。一打同点あるいは逆転の場面に、ファンが期待するのは、目の覚めるような走者一掃のバッティングである。長嶋は、そんなシーンに登場すると、四球を選ぶことはしようとしなかった。長嶋は、逃げの投球をする投手に対して、少々の悪球に対しても飛びついたりすくいあげたりして強引にでもヒットにした。起死回生のヒットを打とうとした結果が、たとえ内野ゴロや三振に終わったとしてもファンは彼の「意欲」を肯定した。またそのときのヘルメットを宙に飛ばし、ユニフォームの胸のマークが一八〇度回転している空振りや、手を広げて一塁までの全力疾走の姿の美しさにファンは満足したのである。「美はどこにあるか? わたしが一切の意志をあげて意欲せざるをえなくなった時と場合とになる。形象が単に形象として終わらないように、愛し、没落することをわたしが欲するようになったところにある」(ニーチェ『ツァラトゥストゥラ』)。
 川上も新たな四番打者像をつくりあげたことは否定できない。川上ほどシステムを理解していたプレーヤーもいないであろう。川上は、その意味において、野球界のヘーゲル的存在であった。川上の功績はシステムを理解し顕在化させたことなのであって、V9にあるのではない。長嶋は川上の後を継いで四番打者になった。長嶋は「神様」川上の後に、「神の死」を宣告して登場したのである。そして、生きられた超人である長嶋の存在の後では“天皇”によって野球のレヴェルを上げる必要もなくなり、“天皇”も無意味な存在になったのである。
 大下は、マルクスが大陸諸国から追放されイギリスに亡命したように、東急球団ともめごとを起こしトレードによって九州に行く。その大下はあくまでも川上の体現していた四番打者像の土台にあった。大下は、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』において誇らしげにヘーゲルの弟子と記しているように、誇らしげに川上を師匠としていたと『大下弘日記』において認めている。大下の川上の転倒はマルクスのヘーゲルの転倒になぞらえられよう。他方、長嶋の川上の転倒はニーチェのヘーゲルの転倒なのである。マルクスはヘーゲル思想の土台を受け継ぎながら、それを変革したのに対して、ニーチェはヘーゲル思想の土台そのものを否認した。大下はマルクスであり、長嶋はニーチェである。それでは、マルクス・ニーチェ・フロイトの思想の三頭政治と呼ばれるトリオの一人フロイトは誰であろうか? 長嶋の次の四番打者は誰だろうか?
 それは王貞治だろうか? 王は長嶋に対してルサンチマンを抱いていた。岡崎満義は、『長島茂雄と王貞治』において、長嶋と王の著作を読み比べると、長嶋がONの関係を楽天的に見ているのに対して、王は長嶋と一度も酒を飲みにいかなかったことを思い出しながら、「どうして記録ではOはNに勝っているのに、人気はNがOをしのいでいるのか、と内心の不満をぶつけている。そしてその不満をバネにして、さらに高い記録へ飛翔しようとしている」と指摘している。吉目木晴彦は、『伝説の生まれる時−沢村栄治と王貞治』において、「プロ野球について論じる場で、彼の名前が挙げられることは、その実績の偉大さに比べれば驚く程稀である」理由は、王が「仮に歴史をやり直すことができたとしても、すでに彼が実現した以上のものを残すことはない」から、すなわち王の物語は完結した「成功者の物語」であり、ファンに「想像の種子」を王は置いていかず「ファンの想像力が介在する余地はない」からだと述べている。つまり、「王貞治は自分が何者かであったかの証明を、自分の手で野球の歴史に書き残して去って行ったのであり、ここには残された歴史を読む側の、恣意的な評価が介在する余地はない」。すなわち、王は認識論的枠組みで過去を構成・解釈する歴史主義者なのである。岡崎満義は、『長島茂雄と王貞治』において、長嶋を「虚実一体」と定義し、王は「実」に固執し、「心技一体」に向かったと述べている。だが、そもそも記録なるものはある時代や場所、使用されている道具という諸条件の下でのエピソードである以上、歴史主義も含めてすべてはエピソードなのであり、「実」すらも「虚」である。だいたい王の通算本塁打数八六八本は世界記録ではない。黒人リーグの「スーパー・キャノン」ジョシュ・ギブソンの九六二本に次ぐ世界第二位の記録なのである。王が「実」と唱えたのは自分自身を救済するための「物語」にすぎない。長嶋の提示した「虚」とは、他のすべての「虚」を飲みつくす強度の力を持ったものである。王は長嶋の歴史主義批判の後では次の四番打者とは言えない。
 それでは、田淵幸一だろうか? 田淵は確かにルサンチマンを抱かなかった。日本プロ野球史上でも、中西太と一、二を争うバットのヘッド・スピードと打球の飛距離、無限のかなたへと誘う雨後の虹のようなディズニーの映画を思わせた飛球線、怪我や病気で試合を欠場するというシリアスな出来事にあっているにもかかわらず、努力や苦労、汗といった生活感を感じさせない甘いマスクの中の呑気な表情、やることは凄いのだがなぜか笑える、それが田淵幸一というプレーヤーだった。犠打を一度もしたことのない田淵は、美しいホームランによって、野球においてフェンスの彼岸は無限なのだということを最も示し、打撃の技術論やバッテリーとの心理戦といったメロドラマを忘れさせた、すなわち隙間を埋めるための言葉を長嶋以上に必要としない唯一の天真爛漫なプレーヤーだったのである。つまり、田淵は長嶋の四番打者像に磨きをかけたのであり、次の四番打者ではなかった。だとすれば、フロイトとしての四番打者は誰だろうか? それは落合であるとわれわれは言わざるを得ないだろう。落合の信子夫人の接し方はまさにリビドーのエディプス・コンプレックスとしての現れであり、あの有言実行は無意識の顕在化と見なすことができる。落合はインタビューを受けたり、解説をしているとき、「そうじゃなくて」という否定の言葉を必ず口にする。これは落合がフロイトの精神分析を実践している証拠である。「判断の働きを遂行するには、否定の象徴の創出を通してのみ可能である」(フロイト『否定』)。「無意識には否定がない」からこそ、落合は否定を投げかける。年齢を重ねるにつれて評価が高まったことや弟子の離反があったこと、ジャイアンツを追われたことも、まさに、フロイト的だ。落合は長嶋のつくった四番打者像を新たにつくりかえたバッターである。それを考慮すれば、監督としての落合の選手への接し方は当然である。フロイトは、自伝の中で、自分は子供の頃から両親につねに鼓舞されて自身を与えられてきたから、それが暗黙の自信になっていると記している。落合はこのように選手に接している。長嶋が絵画を好んだのに対して、落合は映画を愛している。その映画への愛が監督としての落合の選手への接し方を決定づけている。映画は下手くそを偉大できる。「演義経験のないふつうの人が映画に出ると、自分が見せる立場に立っているという自覚より、自分が見られているという羞恥心の方が強いでしょうから、技術としてのはハードルをどう越えて行くかという発想をもちません。それに代わって、ふだんは意識してないけれど、その人に備わっている生活感覚、自然感覚、といった、根太いなにものかがそこで手探りされていくように思えます」(小栗康平『映画を見る眼』)。
 そして、今や、四番打者というものそのものを破壊し、新たな打者像を創出したプレーヤーが登場した。イチローである。イチローは誰なのかをわれわれは体験している。
 さらに、長嶋の際立っている点として、守備によっても熱く語られるということがあげられる。これは四番打者においては極めて異例な話なのである。例えば、大下が外野守備によって語られることはないし、川上にいたってはファースト守備が揶揄の対象になるほどである。「荒武者」豊田泰光は、岡崎満義の『稲尾和久』によると、一九五八年の日本シリーズで、初めて、直接見た長嶋に守備に関して非凡なものを感じ、長嶋はそのハッスル・プレーでプロ野球を変えてしまうだろうと予感している。長嶋がニーチェだとすると、その豊田はキルケゴールであろう。岡崎満義の『中西太と豊田泰光』の中で豊田が語る「スランプ」はキルケゴールの言う「死に至る病」、すなわち「絶望」の完璧な解説である。豊田はさまざまなメディアを通じて、極めて示唆的な発言をしている。新たな価値に基づく倫理を考えるのなら、豊田の言説に耳を傾ける必要がある。長嶋は打つだけでなく、守備を含めたグラウンドでのプレーすべてにおいてファンを魅きつけたのである。
 長嶋が守備でも語られる理由は、長嶋のサードというポジションにも関連している。「ミスター・タイガース」と呼ばれた藤村富美男は守備によっても語られる数少ない四番打者であるが、彼もサードだった。日本では、サードと言えば、長嶋やその藤村だけでなく、中西太、有藤道世、藤原満、掛布雅之、石毛宏典、松永浩美らの名前があげられる。彼らは必ずしも守備だけでなく、打撃や走塁という面に関しても十分にアピールするものを持ち合わせている。最近のつまらない野球に対して、ホット・コーナーの復権を叫ぶものがいるが、そこが注目されるのは実は日本的な伝統によるのである。
 プロ野球草創期に活躍した、日本野球史上最高のセカンド苅田久徳は、高田実彦の『苅田久徳』によると、日本ではもともとライトとセカンドは下手なプレーヤーが守っていたが、大リーガーのプレーを見て、「内野の要はセカンドだ!」と気づき、これからはセカンドを重視していかなければならないとショートからセカンドへ自らコンバートしたと言っている。この時大リーグ・オールスターのメンバーとしてセカンドを守っていたのは、チャーリー・ゲリンジャーである。彼は生涯安打数は二八三九本、二塁打数は史上十位の五七四本、本塁打一八四本、終身打率三割二分、首位打者一回の大リーグの歴史の中でも屈指の名プレーヤーである。苅田の目は卓越していたと言うほかない。一九三一年に大リーグ史上一と評価されるフランキー・フリッシュが来日しているにもかかわらず、そのときは誰も日米のセカンドの違いを認識できなかったのだから。アメリカでは、吉目木晴彦の『二塁手の顔−顔のないポジション』によると、セカンドに名プレーヤーが集中し、サードは生涯打率三割二分のパイ・トレーナーを除くとこれといったプレーヤーが出ていない。大リーグでサードが注目されるのは、「掃除機」と呼ばれたブルックス・ロビンソンが登場してからのことである。その後、マイク・シュミットなどが表われ、サードも強打者のポジションとなった。セカンドには近代野球最初の四割バッターであり、アメリカでのセカンドのイメージを決定したと言われているナポレオン・ラジョイ、生涯安打数史上九位の三三〇九本、シーズン三振数平均僅かに十一(ちなみに、三振をしないことで知られた川上哲治ですらシーズン平均は二三である)のエディ・コリンズ、史上最高のセカンド・プレーヤーの呼び声の高いフランキー・フリッシュ、四割二分四厘の二十世紀大リーグ最高打率など数々の輝かしい記録を持つロジャーズ・ホーンズビー、二十世紀初の黒人大リーガーのジャッキー・ロビンソン、六八九盗塁のジョー・モーガンといったそうそうたる名前が出てくる。日本のジャイアンツで一九七五年から七六年までの二年間プレーしたテイヴ・ジョンソンも、もともとはセカンドのプレーヤーだった。彼の売り込み文句は「大リーグのセカンドのシーズン本塁打記録を塗り替えた男」であった。ジョンソンが一九七三年に四三本塁打を放つまでのその大リーグ記録は、一九二二年にロジャーズ・ホーンズビーが達成した四二本であった。ちなみに、ホーンズビーはこの年打率四割一厘を同時に残すという驚異的な成績をあげている。ホーンズビーの実績を列挙すると、実働年数は一九一五年から三七年までの二三年、終身打率は三割五分八厘でタイ・カッブに次いで史上二位、長打率は史上八位の五割七分七厘、打率四割を超えること二年連続を含む三回、首位打者七回、打点王四回、三冠王二度と目も眩むような記録が並ぶ。三冠王に二度輝いたのも、ホーンズビーのほかには、最後の四割バッター、テッド・ウィリアムスだけである。「この間グールドの進化論エッセイを読んでいましたら、昔、アメリカ野球の英雄時代には四割打者がばんばんいたというんですね。ピッチャーがよくなったとか、バッターが駄目になったとかいうんだけど、実は下位打者の打率がどんどん上がっているんです。つまりつぶ揃いになってるんです。平均値はどっちかというと上がってるんですね。まあ、しょうもないのがいないかわりにバツグンもいない。ひょっとしたら生物学の法則みたいなもので、成熟してある段階になると平均化するということかもしれんと思ったんです。なんか無茶苦茶なんだけど、気分的にはわかる気がするんです。つぶ揃いが切磋琢磨すしあうからいいものが出るというのは、僕はたぶん嘘で、平均的に生産効率が上がるかもしれないけれど、局面を打破するような新しい発想は出なくなると思うんです。本人のことから言うと、自由であるほうがぜったいいいとは思うんですけど、安全度ということから言ったら、つぶ揃いのほうがいいでしょうね」(森毅『たかが学校じゃないの』)。ホーンズビーのこの四二本の本塁打は、一九二〇年のベーブ・ルースの五四本塁打と並んで、野球界が本塁打狂時代へと突入する契機となった記録である。ジョンソンがそのホーンズビーの記録を更新したということは、どれだけのインパクトがあるのかが理解されよう。蓮実重彦が、『デイヴ・ジョンソンは美しかった』において、ジョンソンのセカンドの守備の「官能的な艶を帯びた」美しさにうたれたと告白するのも、無理からぬことである。ジョンソンはアメリカでの華のポジションであるセカンドで歴史的記録を残した名プレーヤーなのだから。そのジョンソンが日本ではサードを守ったのは、こうした日米の野球におけるポジションに関する認識の相違があるからなのである。蓮実は坂本龍一と村上龍との鼎談で、セカンドはどこか暗くて、ほんとうはサードやピッチャーをやりたかったができなかったというような影を背負っているとある映画人の意見を引いているが、セカンドの顔は日本特有の問題である。それは、先のジョンソンだけでなく、日本でプレーした外国人のセカンドを思い浮かべてみれるだけでも明らかである。ブレーブスで活躍した最強のガイジン・プレーヤーだったダリル・スペンサーは、百九十センチ以上の身長と体重百キロ近い巨体でパイソンを思わせた。ホエールズとジャイアンツでプレーしたジョン・シピンの打球の速度は当時セントラル・リーグで一、二を争っていた。ブレーブスのボビー・マルカーノはセカンドとしては日本プロ野球で初めて打点王を獲得している。スワローズ初優勝の切りこみ隊長デイヴ・ヒルトンは独特のクラウチング・スタイルから勝負強いバッティングをした。ホークスで暴れん坊として知られたトニー・バナザードは片手一本で軽々とスタンドまで運んだ。横浜ベイスターズのローズは弱小チームで気をはき、打点王を獲得した。彼らは巧打者ではなく、確かに強打者であり豪打者であった。最近は、日本でも、セカンドとサードをめぐる環境がいささか変化してきた。
 苅田の着眼点は素晴らしかったが、セカンドは苅田の思惑や大リーグとは違った方向にたどりついた。日本ではコンバートによってセカンドの顔をつくったため、セカンドは顔のないポジションとなってしまった。つまり、ショートからコンバートしてきた苅田が、その後の「顔のないポジション」としてのセカンドのイメージを決定してしまったのである。苅田はバッティングはそれほどでもなかったし、さらに、コンバートにたえられるだけの器用さを持っており、かくし球や空タッチ、シャドー・プレー、トリック・プレーをうまく見せるプロだった。その華麗さは、苅田のプレーしている姿にポーッとなった女性ファンが、その帰りに上の空のままでいたことから事故を起こしてしまったという伝説があるほどだった。苅田以後のセカンドの名手と言えば、千葉茂、岡本伊三美、鎌田実、山崎裕之、高木守道、大下剛史らであり、現役で言えば、バファローズの大石やスワローズの辻発彦のような、確実で素早く器用だが非力というプレーヤーをさすのである。
 七十年代半ば、ホエールズでクリート・ボイヤー(サード)、山下大輔(ショート)、ジョン・シピン(セカンド)、松原誠(ファースト)らによって内野カルテットが結成されていた。このカルテットはアメリカ的であった。セカンドのシピンを除くとこの内野カルテットはこと守備だけに限っては日本のプロ野球史上でも屈指のものだったように思われる。セカンドのジョン・シピンは、打撃に関しては申し分なかったが、守備は同じ時期に活躍したドラゴンズの高木守道などと比べると、はるかにお粗末だった。スナップ・スローは素晴らしかったが、シピンはイージーゴロをポロポロとしょっちゅうエラーした(それなのにどういうわけか二年連続でダイヤモンド・グラブ賞に輝いている)。そのため、ホエールズでプレーした後半は外野手に転向させられている。ところが、先にあげたロジャーズ・ホーンズビーも、吉目木晴彦の『二塁手の顔−顔のないポジション』によると、守備が下手だった。あれだけの打撃成績を残しているにもかかわらず、彼が史上最高のセカンドの名をフランキー・フリッシュに譲るのもその守備のためである。彼の守備たるやイージー・フライを最初から目測を誤るという初歩的なエラーを連発するものだった。これだけしょっちゅうフライを落とすプレーヤーは、いかに素晴らしいバッティングをしたとしても、日本でならば、セカンドからファーストにでもコンバートされるに違いない。しかし、彼はセカンド以外のポジションを守ったことは少ない。ホーンズビーが全出場試合二二五九試合中、ファーストを守ったのが三五試合、ショートとして三五六試合に出場したにすぎないのである。つまり、アメリカではセカンドの守備は日本でよりも確実性においては要求されてはいない。セカンドは「圧倒的な存在感」を持ったプレーヤーがそれを発揮するポジションなのである。アメリカでならば、シピンはセカンドのまま外野にコンバートされることはなかったであろう。
 シピンはジャイアンツに移籍した後、ポジションをセカンドに戻される。そうしたのは、ほかならぬ長嶋だった。フライを自分ではとらず、黒江透修にまかせていた長嶋がアメリカでのセカンドの地位を必ずしも理解していなかったと思われる以上、セカンド守備だけでなく、守備そのものについての認識が独特なものがあったと考えられる。
 岡崎満義は、『巧守巧走列伝』の「はじめに」において、長嶋の守備を元タイガースの名ショート吉田義男と比較して、次のように述べている。
守備は地味なものだ。華麗な超ファインプレーなどというものは、年に何回あるか、というくらいなものだ。地味な守備のなかに、いぶし銀のようにピカリと光るものを見つけるのが真の野球通だと思っていた。
 ところが、長島茂雄の出現で、その考えがややぐらついたように思う。吉田の守備がいぶし銀なら、長島のそれは金粉をまぶしたような守備だった。吉田はやさしいゴロも難しいゴロも、同じようにさりげなくさばいた。長島は難しいゴロはもちろん、やさしいゴロもファインプレーと思わせるような動きでさばいた。「派手な大トンネル」といった見出し文句が、ときどき長嶋にはついたものだ。
 プロは三振しても絵にならなければいけない。凡ゴロもファインプレーに見せる技術が必要だ。長嶋はそんなふうに考えているのではないか、と思わせるようなところがあった。ホットコーナーのパフォーマンスとは何かを、長嶋は考えつづけた男のように思える。そのコンセプトにしたがって、長嶋は猛練習したのである。吉田に劣らず、練習したにちがいない。
 守備は一つの反復作業であり、その機能は可能なかぎり試合開始状態に近い形を保存していくこと、すなわち現状を維持していくことしかない(7)。つまり、守備はもしもあのプレーがなかったならという条件節でのみ語られるネガティヴなものであり、確実性だけが要求されてきた。条件節であることによって、見るものの経験的推量・恣意的解釈が入り込み、その評価は一定しない。その反動として、守備でならした者やそれを見る者も、過去に対しては「もしもああだったならば」と言い、未来に対しては「こうなるべきだ」ということを置き入れる。守備は極めてルサンチマン的なものだった。広岡達郎や(渡仏以前の)吉田が周囲の人々の神経を逆撫でするような言動をとるのはそのためである。
 長嶋はその守備に価値転倒の企てを行った。守備に要求されるのはたんなる確実性だけではない。守備も、バッティングと同様、ファンを満足させるというメッセージが含んでいなければならないと長嶋は考えていたのである。長嶋の守備はいかに保存するかではなく、いかによりよく、より美しくプレーを創造するかという精製する原理を帯びていた。すなわち、長嶋は価値を創出することを目標としていた。「何が善であり悪であるか、そのことを知っているのは、ただ創造する者だけだ−−そして、創造する者とは、人間の目的を打ち建て、大地に意味と未来を与える者である。こういう者が初めて、あることが善であり、また悪であるということを創造するのである」(『ツァラトゥストゥラ』)。長嶋は創造する者として、ルサンチマンを守備から追放したのである。つまり、守備は条件節によって評価されるものではなく、その「意欲」によって評価されるものになったのである。守備は反復である以上、それはニヒリスティックな試練であるが、それと同時に、そこに一切の条件節的な評価を自ら拒否することによって、それは「意欲」という新たな価値を創出できる側面を持っている。つまり、長嶋は持っている力を出しつくし、その結果として現れてきたことを、たとえそれが失敗だとしても、そのまま認めることこそが大切なのだと示したのである。
 長嶋は、それゆえ、ルサンチマンによって誕生するメロドラマを増幅していくライヴァルというものを持たなかった。よく言われる村山実や金田正一、江夏豊は長嶋のライヴァルではなかったのである。
 村山も、金田と同様に、ルサンチマンにとらわれ続けた投手である。長嶋を語る際に、一九五九年六月二十五日の後楽園球場で行われた天覧試合が必ずひきあいに出される。それはライヴァルの物語のモデルと見なされている。だが、村山実は、天覧試合で長嶋にサヨナラ・ホームランを打たれたことによって、長嶋のライヴァルとして語られるようになったのである(8)。天覧試合に先発したのは「精密機械」小山正明であって、リリーフに出た村山は一介のルーキー・ピッチャーにすぎなかった。その年、最優秀防御率と沢村賞を獲得しているものの、村山は、一九八〇年のファイターズの木田勇や一九九〇年のバファローズの野茂英雄らのように、デビューしたその年いきなり新人賞だけでなく、投手部門のすべてのタイトルやベストナインさらにはMVPまでも総ナメにしたスーパー・ルーキーではなかった。確かに、村山から見られた天覧試合はメロドラマであるが、しかし、長嶋からの天覧試合は、そのパロディーだったのである。それは、野球体育博物館に飾られているその時のホームランを放ったバットが、越智正典の『長島“天覧ホーマー”!』によると、他人から借りたものであるかまたは違うバットを勘違いして献上しているかのいずれかであろうと推測されることが示している。しかも、村山が「あれはファウルだ」と主張する疑惑のホームランである。何ごとにおいても起源は後から見出されるものでしかない。神話はその典型であろう。天覧試合も後から戦後プロ野球の神話として発見されたものにすぎない。疑惑を隠し、起源捏造の物語という神話として天覧試合は強化されてきた。長嶋はその起源の発見に対して大団円を認めない。天覧試合が後に神話として強化されることを見越して、正統性の虚偽を、疑惑を長嶋はバットを忘却することでつきつけたのである。「フェアはファウルであり、ファウルはフェアである」(シェークスピア『マクベス』)。それに、村山を語るのは一九五九年五月二一日の対ジャイアンツ戦につきる。この試合は、五回に長嶋に四球を与えた後、味方野手の三連続失策のため二点を失ったが、ノーヒット、一四奪三振を記録して、三対二で完投勝利というノーヒット・アリランになった。
 江夏の場合は、村山らと少し事情が異なる。江夏はルサンチマンにとらわれなかった数少ない例外であり、そのため、延長のノーヒット・ノーランを自らのサヨナラ・ホームランで決めた後の「野球は一人でもできる」という彼自身の一言に代表されるように、自分自身で多くの見せ場をつくれた。江夏は、吉目木の『黄金のサウスポー−江夏豊』に従うならば、「野球フリークスが夢見る完全無欠な投手像を、日本のプロ野球の歴史上、初めて実現して見せたのである。(略)スピードとコントロール、あるいは速球と豊富な変化球、パワーと老獪な頭脳、投手において通常矛盾し合う才能を同時に我がものとした少年は、しかもその若さゆえに、どれほどの大器となり得るか計り知れない可能性を秘めていた」。ところが、江夏は心臓病や血行障害といった数々の不運に見まわれ「二線級の投手」に成り下がるが、今度は最高のリリーフ投手として復活する。だが、見るものはそのリリーフで活躍している江夏に若き日の「完全無欠な天才投手」という「失われた時」を求めた。すなわち、江夏は見るものに「失われた時」は戻ってくるのではないかと想起し続けさせた男なのである。江夏はまさにメロドラマのストーリー・テラーとしては最高だった。江夏は、プルーストのように、何度も物語を書きかえた。江夏は終りを求めるがゆえにつねに終りが先送りされていく時間の中に生きていたのであり、四十近くになってから大リーグに挑戦し、常識的に失敗することによって最終的なエンドを拒否した。つまり、江夏は永遠に失われた時を想起する物語をつくりあげたのである。江夏について書かれた文献の多さは長嶋と一、二を争うだろう。江夏はプロ野球の歴史において確かに長嶋と並ぶ存在であった。にもかかわらず、江夏自身も否定しているように、長嶋と江夏の関係がライヴァルにならないのは、二人ともルサンチマンにとらわれていないからである。ライヴァルのメロドラマは、ルサンチマンを抱くものがそれを克服してしまったものへ自らのルサンチマンを振り向け、それが克服したものに飲みこまれていく物語である。
 川上は学生野球中心だった日本で職業野球に目を向けさせ、大下弘は職業野球を学生野球以上にし、長嶋茂雄はプロ野球を完全に日本野球の中心にした。このことはファンというものが変わってきたことをも意味している。彼らはファンの変遷とともにあった。
 長嶋は、『ジャイアンツと私』において、プロ野球選手にとって必要な態度を次のように述べている。「何がプロ的ということになるんだけど、要するに表現力です。人生は表現力だと、よく言いますね。特にプロ野球の場合、プレーをお見せすることによって、皆さんの支持、支援をいただき、そして共感をいただく。また、われわれプレーする側からいえば、観客の方に感動を抱かせる。それがプロたるものの使命であり、姿勢である。そんな風に考えて、学生時代から一生懸命勉強していたわけです」。長嶋は野球に関心のないものの目をも野球に向けさせた。長嶋はファンによって支えられたと告げているが、草野進は、『長嶋茂雄は祈ることの醜さを球場から追放した』において、長嶋のファンは存在しなかったと述べている。草野によると、「そもそもファンというのはどこかしら孤独で、隠匿性への意志を強く主張する人たち」であり、ファンは「ひそかに好んでいる」選手のために祈らずにはいられないが、長嶋は「そうした祈りや人目に触れぬ配慮などまるで必要としてはいなかった」。つまり、「出来そこないの子供に愛情を注ぐ親のように、影ながら自分がささえてやらねば世の中を渡ってはいけまいといった気持で選手を贔屓せずにはいられないファン気質の醜さを思い知らせるように、彼はそんな隠された心遣いを頭から無視し、勝手気儘にグラウンドをかけずりまわってくれたのだ」。ここで、「隠匿性への意志」とはアイロニーであり、有名性に対する悪意としての反感を秘めている。ファンはルサンチマンに基づいた自己同一性を志向している以上、それを克服してしまった長嶋にその意味でファンはありえない。長嶋はルサンチマンの生み出す「ファン気質」をも笑い飛ばしたのである。
 長嶋は最高の教育者であった(9)。長嶋に憧れて少年たちは野球を始め、長嶋になるべく躍起になり、背番号3に憧憬した多くの少年たちがプロ野球選手となっていった。少年たちだけにとどまらず、同じプロ野球の選手たちまでも長嶋を実存のモデルとしたのである。
 天秤打法の近藤和彦はバッティングに悩んだとき、岡崎満義の『近藤和彦』によると、長嶋によって救われていたと次のように述べている。
しかし、一番の薬は長嶋君でした。彼とは同じ年にプロに入ったわけだが、彼は会うたびに「いい投手が出たらそうは打てないよ。4−0も仕方ないよ。まあ振っているうちに、いわばマグレのヒットも出るかもしれない。それに、今日4−0なら、明日4−3打てば勘定はあうじゃないか」と決して深刻にならない。あれはすばらしい。ぼくも長嶋君にあやかって、そういう考え方をするようにしました。 
 近藤は長嶋がいなかったならば一度くらいは首位打者に輝いたかもしれないが、長嶋がいたからこそプロ野球で現役を続けられたと感謝している。近藤こそ長嶋という強者の圏内のうちに身を置いた弱者、すなわち超人思想の申し子なのである。ニーチェによると、弱者が目標とすべきなのは、さらなる弱者に対して相対的にルサンチマンを晴らしたり、ルサンチマンを自己に向けて自分の生を否定するのではなく、つねに強者が示す高次の生き方に憧れ、自分がそのように生きられない場合でもその生き方の「圏のうちに身を置く」ということであるから。
 長嶋にとって、問題となるのは平凡な人たちがその強者の範例をどう受けとめるかという点にある。「けだし、問題は確かに次のようになるのだ。個人としての汝の生が最高の価値を、最深の意義を保つにはいかにしてか? いかにすれば汝の生が浪費されることが最も少ないか? 確かに、汝が極めて稀有な極めて価値ある範例に有利であるように生き、大多数者、すなわち個々別々にとれば極めて無価値な範例に有利であるようにではなく生きることによってのみである」(ニーチェ『反時代的考察』)。超人は現実的に力を持っている者と必ずしも同一ではない。真の強者は自分の力を認識し、つねに最善をつくして、それでも成し遂げられないことはそれとして認める。長嶋はその基準を自分自身のうちに持っており、やってきた結果に対して決してルサンチマンを抱かない。ところが、大多数者は守備のように条件節的に現実をとらえ、生き難さを感じ、あるがままの現実を是認することができない。だが、こうした生き方はその人を肯定的に生を感受させ得ない。玉木の『あなたもわたしも「長嶋茂雄」を殺してはならない』によると、プロ野球史上、最も美しい投球フォームを見せた杉浦忠は次のような話をしている。立教大学の野球部では連帯責任を負わせる風習があり、一人がミスをすると、同学年のもの全員が殴られた。このことによって、善し悪しはさておくにしても、他人に申し訳ないという社会人としての意識が芽生えるのだと杉浦自身は言う。けれども、長嶋だけは別格で、自分がミスをした結果他人が殴られても、アッケラカンとしていたというのである。彼は平気で「今日は縁起が悪いや」と言い放った。ここでの社会人としての意識とは、平均人としての意識にすぎない。平均人は自分の生き方を他人の評価だけ見ることによって、ルサンチマンを増幅・抑圧し、それを晴らすことに生の理由を見出すことになる。平均人による社会とは反感をうまく組織化したものによって握られている反感の体系にほかならない。一方、長嶋は社会の調和的な維持ではなく、個人が自分のルサンチマンのありようを認識してそれを肯定的な方向に転換し、生がその内で充実されるのかということを目標としている。そうなれば、繰り返ししかない状態でさえも、肯定し得る永遠の好ましい円環運動となるはずだからである。つまり、必要なのは、あるがままの差異の平均化ではなく、その意識化である。平均化は弱い人間には無理な要求を、強い人間にはその肯定的な力を殺ぐことを強いるだけなのである。強いものと弱いものは誰がわけるのかという疑問は、強いものは自分の中に評価の基準を持っている以上、弱いものから発せられるものでしかない。しかし、強い人間も弱い人間もその差異に自分の生の根拠を見出すべきではなく、大切なのは自分自身の反感のありようを十分に意識することなのである。人間が生を肯定しつつ且つさらに高い生き方を探し求めるという課題を持ったほうが、平均化よりもはるかによい生き方と長嶋は主張しているのであって、「理想と現実」の二項対立は、長嶋のパースペクティヴにおいては、意味をなさない。
 才能と努力は違うものをもたらす。才能は瞬間的な力を、努力は持続する力をその人に寄与する。大下弘や中西太、田淵幸一は才能で、王貞治や張本勲、野村克也は努力で生きたプレーヤーだった。前者は、瞬間として、打球一つで語り継がれていくものになり、後者は、結果として、積み重ねられた記録によって話題になる。いかに努力しても、持たないものが才能を獲得することはできない。それは運命でしかないからだ。才能のあるものは、才能によって、努力のものは、ルサンチマンを持たず、努力して生きたほうがいい。才能を持つものが努力すればより以上の存在になれると考えてはならない。才能はその人におさまりつかないものであり、没落させてしまうほどの力なのだ。長嶋はその極限だった。「実績を残した人で自分を天才というのはないよ。みんな自分は努力家だって言うよ。だから、天才っていうのは、まあ長嶋さんみたいに、明るく努力できる人のことだよ」(東尾修)。
 落合博満は、最も素晴らしい長嶋茂雄論である『長嶋さんに理屈をつけてはいけません』において−−長嶋を論じようとするものは、誰でも、まず、この落合の意見に耳を傾けなければならない−−、長嶋という生成について次のように述べている。
長嶋さんってのは、もう、「とにかく凄い」としか形容の仕方のないプレーヤーですよ。
「とにかく凄い」
 それ以外に言葉がない。
 王さんというのも、これまた凄い選手だけど、ぼくらの世代は長嶋さんがすべてだったよね。ぼくらより下の世代、昭和30年よりあとに生まれた世代が王さんのファンで、ぼくらの世代までが長嶋さんのファンということなんじゃないの。
 長嶋さんのどこが凄いかって?
 それは長嶋さんひとりでお客が呼べたっていうことですよ。うん、あのひとは、ひとりでお客を呼べた。そんなプロ野球の選手って、後にも先にも、もう、あのひとだけじゃないかな。空前絶後。あんな選手は、絶対に出ませんよ、もう。
 長嶋さんは、なぜ客を呼べたかって?
 それは、まあ……、いろいろ理由はあるよね。なにも、ぼくがいわなくても、バッティングやフィールディングの一挙手一投足が美しかったとか、迫力があったとかね、そりゃ、もう、いっぱい理由はあげることができるでしょ。
 けど、いくら理由をあげても、あげ切れないっていうのか、長嶋ってプレーヤーは、こういうプロ野球選手だって断定した瞬間、いや、それだけじゃないとか、そんなものじゃなかったっていう気持ちが湧いてくるんだよね。
 まあ、長嶋さんってひとは、ひとことでいえないひとだといってしまえばそれまでかもしれないけど、そういういい方もまた違っているというか。ひとことでいえないひとだっていった次の瞬間、いや、ひとことでいえるかもしれないって気持ちが湧いてくるんだよね。「ミスター・プロ野球」といえばそれでいいんじゃないかとかね。
 だから、あのひとは、こういうひとだとか、こんなふうにすばらしいひとだとか、そういうふうに断定的にいっちゃ、絶対にいけないひとなんですよ。ただただ、そういうひとが存在してくれたことを、そして、存在していることを素直に喜べばいいんじゃないの。(略)
 うん、はじめてあったときは驚いた。だって、身体全体が、ほんとうに光ってたよ。そう、後光みたいなのがさしていたね。光ってた。ほんとうに光っていたの。だから、ああ、ウワサはウソじゃなかったんだなあと思ったね。
 まあ、長嶋さんってのは、そういうひとなんだから、そんなひとを、言葉でどうのこうのいっちゃいけないんですよ。
 ただただ、あのひとを見つめて、いいなあ、と思ったり、あのひとのいうことを聞いて、おもしろいことをいうなあとか、そんなふうに思っていりゃいいんですよ。もういちどユニフォームを着て監督をするかもしれないけど、そのときだって、あのひとのやることをじっと見つめていりゃいいんです。そうすれば、誰もがしあわせになれるんだから。
 さっきもいったけど、あんなひとは、もう二度と出てこないね。それは確か。なぜかって? それは、環境の違いでしょ。育った環境の違い。時代が違うっていういい方もできるだろうね。時代が違う。いまのぼくらと長嶋さんとでは、あらゆる点で育った環境が違う。だから、第二の長嶋茂雄なんて、絶対に出てきませんよ。まあ、そのことだけは、はっきりと断言できるね。
 ああいうひとが、もう二度と出てこないってことを悲しむ気持ちもわかるけれど、ああいうひとが一度でも出てきたってことを喜ぶっていういい方もできるんじゃないかな。
 うん、ぼくは喜ぶってほうの意見ですよ。プロ野球界に……というより、この世の中にっていうか、まあ、この国にっていうか、ああいうひとが存在したってことを思うと、ほんとうによかったなあと思うのは、ぼくだけじゃないんじゃないのかな……。
 われわれは長嶋の決断力あふれるプレーに魅了され続けた。彼ほど決断力のあったプレーヤーをわれわれは知らない。長い時間がたったときには、第二の長嶋が出現することはあるかもしれない。けれども、それはあくまでも第二の長嶋にすぎないのだ。長嶋は一人しかいないのだから。長嶋以後に、野球にまったく興味のない人たちまで関心をよせるようにさせるには、イチローを待たなければならなかった。メニッポス的諷刺の体現者イチローはスタン・ミュージアル級のバット・コントロールとミッキー・マントルばりの足を持っている。東京から遠く離れた神戸で、テレビどころかラジオの中継すらめったにない強くても観客動員がのび悩んでいるチームにいながら、九四年の世間のあいさつは「彼の二百本安打達成はいつだろう」だったのである。われわれは、九二年のジュニアー・オール・スターでMVPに輝いた鈴木一朗を見たとき、第二の掛布が登場したとひそかに熱狂したものだった。左打者で、前さばきがうまく、体が小さいわりに打球が速く飛距離もあり、そして、何よりも、彼はストッキングを膝のあたりまで見せるようにしていたのである。予想は大きく外れた。われわれは彼を小さく把握しすぎていたのだ。長嶋が登場したことをその社会や野球の歴史から理解することは可能だろう。しかし、長嶋は、日本野球を考えるとき、たんに時代を表象したというだけでなく、「到達できない規範」(10)としてある。なぜだろうか? それは長嶋が二度と現れることはないからである。だが、長嶋がもう二度と現れ得ないことは悲しむべきことではない。「超人」とは「人間の本性を人間の最高のものの起源をとらえた者」(ニーチェ『権力への意志』)であり、個人の実存のモデルであるから。それでは、なぜ長嶋はもう絶対に現われ得ないのだろうか? それは長嶋が真の子供らしさを体現していたからである。子供はロマン主義的な幼稚で無邪気、すなわち何も知らないのではなく、子供という存在は、生がどれほど生きがたいものとして現れても、それにもかかわらず過ぎ去ったことのすべてを忘却してつねに現にある一瞬一瞬を最大限に生きようとする無垢に立ち返るような力を意味している。長嶋が子供と見なされていたのはその力を表現したことによるのである。長嶋をわれわれが見るとき、自分自身の失われた何ものかを想起する。長嶋を見ることによって幸せになれるのは、かつて自分自身がそうであったように、そこに差し引きなしの生の完全な肯定を感受できるからである。つまり、現実に長嶋のように生きることができないからこそ、長嶋は個々人だけでなく野球そのものの「到達できない規範」として考えられている。
 要するに、長嶋は背番号3、サード、四番打者といった伝統を十分に踏まえながらも、それに関わる価値を完全に転倒した。長嶋は評価基準を自分の力をよく認識しつねに自分の最善をつくし、それでも成し遂げられないことは、それとして認めること、すなわち「意欲」に置いたのである。つまり、長嶋は、野球を「これまで否定されてきた生存の側面を必然的のみならず、望ましいものとしてとらえる」(『権力への意志』)という肯定から見ることを導入したのであり、長嶋のデビューはその規範にほかならない。